お友達は選びなさいよ、は本当だ

 うちの両親は「お友達は選びなさい」なんてことは一度も言わなかったから、なんだか高飛車な言葉という印象があったけど、人とのつながりが簡単に出来てしまうインターネットにおいて、この言葉は大切だと思える。

 リアルだったら簡単に晒さない部分も匿名性の高いネットでは晒してしまう。例えばこの文章だってそうなのだ。リアルだったらこんなことをいきなり他人に話さない。もっと遠い距離から少しずつ相手を知っていくことになる。

 そして親しくなれる相手かどうか、親しくなって構わない相手かどうか、時間をかけてわかるのだ。だから間違いが少ない。それは相手によって問題の起きない距離を測ることでもある。

 人間関係は複雑で難しい。様々な過程で擦れ違い失う。諸行無常

 この春から築き上げつつあった関係が消えようとしている。両者の外側にある問題によって。最後は私の選択によるものだ。親しくなれる相手というのは少ない。だからとても残念なのだ。縁と言ってしまえばそれまでだけど。心が残る。

 

何処へ向かって

 思春期と呼んだらいいのか、地面から顔を出した新芽のように弱弱しく社会を眺めた時期がある。17歳くらいの頃だ。それから実社会に出るまでの間、考えれば考える程未知なる未来に怖気づいていた。40に手が届いたころだったろうか、当時の気持ちを振り返り人生の半分を生き切ったような安堵感のようなものがあった。

 同時に体力的に若くはない自分を感じ始めたのが40台。そういう意味で40歳と言うのは節目なのかも知れない。50台となると老いを近くに感じずにはいられない。衰えゆく肉体。老後ということも頭を過るようになる。人生の中間地点を過ぎ、17歳のあの頃に似た怖気を感じる。未来に向かって、ではあるが、終着に向かってだ。

 昨日は疲れ過ぎてシャワーも浴びずに寝てしまい深夜に起きてシャワー後に書いている。文学少女ではなかったが若い頃は今より本を読んだ。忙しい日々に忘れていた習慣だったが最近本を読みたいと思う。自分以外の誰かの人生を垣間見る。そこに私の知らない何かがある。人生の何かが。

やり過ごす

 連日の暑さもあって今日は本当に仕事がしんどく。気持ちも体も重く。ここまで辛く感じる日は最近稀でなんとか一人でやり過ごした。恋人からの電話を取る気にもなれず。結果、取らずによかった。ここので辛いと愚痴を言うとさらに辛くさにはまり込むし、優しさに甘えるだけになる。こういう時は一人でやり過ごすことが大事。兎も角、後はベッドになだれ込むだけだ。終わった終わった。よく頑張ったと自分を褒めよう。夕方少し時間を作って庭の花の手入れをした。無心になれるストレスフリーの時間は有難い。

惜しむのではなく


Tatsuro Yamashita - Big Wave (Full Album)

 

 山下達郎のBig Waveは見事にタイムスリップしてしまうアルバム。

 相模原の大学に居たころ、当時好きだった一つ上の先輩に夜のドライブに連れて行ってもらった。16号線沿いにYesterdayが出来たころ。あの夜は人生最良の夜だったかも知れない。この人とは上手くいかなかったけどいい思い出。

 恋愛に限らず過ぎ去った美しい思い出は、過ぎ去りし若い日々のように惜しまれる。けれど惜しむより幸福だった時間を慈しめるようありたい。

 

 急に肌寒さを感じたせいか今日は気持ちが落ち込み気味で村上春樹の『ノルウェイの森』を唐突に思い出していた。ーー死者は圧倒的な存在となり私の中に存在し続けるー。恋人にその話を少し振ると「死者は他者ではなくなるから」と言った。

 大切な存在であればあるほど、死者は私の中で生き続ける。普段沈黙している彼らはある日唐突に扉を叩く。温かみと悲しみを一緒に持ってくる。

 

過ぎたこと

おもえばずっと過ぎたことに拘りすぎていたし、他者に対してひどく攻撃的だった。作家が書くべきなのは作品であって、怨みそねみではない。醜い場外乱闘を演じることに意味はない。害悪でしかない。ともかくまえに進むためにそういったものを棄てていくしかない。   中田満帆 ニュースレターより

 

 中田満帆氏のこの言葉を読むことで遠い過去の自分を思い起こすことになった。二十代後半で手痛い恋愛経験をして三十代前半を棒に振ったのだった。信じて切っていた恋人と女友達にこっぴどく裏切られた経験が人間不信や恋愛不信としてずっと拭うことが出来なかった。

 過ぎたことに拘る。過ぎたことにできないから拘るのだ。否、拘るから過ぎたことにならない。それが呪縛となる。文藝人であれば拘りを文学に昇華させることも出来ようが私には文才もなかったし思い付きすらしなかった。

 どうやってその呪縛から解き放たれたかといえば、いくつかの段階があった。まず恋愛以上に打ち込める事柄を探した。三十代後半はそういったことに費やした。恋愛と同様に簡単に出会えるものではない。けれど信じて探すのだ。

 はっきりと手ごたえを感じるころには四十代に差し掛かっていた。同時に恋愛の失敗で損なわれたアイデンティティが随分回復されていった。そして再び恋愛する機会が訪れたが、少なくとも以前のような恐怖心は生まれなかった。

 今思うことは、恋愛は大切な一つだけど全てではないということ。また、自分以外の誰かと共に生きて行くということは夫婦や家族や恋愛に限ったことではない。人に限ったことでもない。心が満たされる瞬間、人は幸福を感じることが出来る。 

ほころび ほころぶ

 魚の小骨が喉にひっかかるようなそんな些細な感覚が心の中にある。それはきっとこれまで重ねて来た日々の、いや、私という人間の小さな綻びなんだと思う。

部分的に痛んだ生地がいつか大きな裂け目となってしまうような小さな綻び。

 ライフワークや趣味、そして恋人、私の生活、私の生を成すあらゆることに一度真摯に向き合ってみたい。独りではなく誰かと共に生きていくために。

 強がらず、強くありたい。うた、はあらゆるものの上にやさしく降っている。そのうたに耳を傾けて。